一日一鼓【0110 - 0125】
0110
「何を迷ってるの?って、聞かなかったね」
ぼーっと、酔っ払った彼を乗せたタクシーを眺めていたら
彼女が声をかけてきた。
彼の“恋人の子供が通う保育園の先生且つ恋人の友人”である、彼女が。
あの人、何を迷ってたんだろう
楽しみなら踏み切ったらいいのに
そう思わない?
時間を無駄にしてるって、思わない?
0111
突然彼の人生においての同意を求められて戸惑ってしまった。
言い訳ばかり並べて
それが何よりも大きい壁です、みたいな顔して
決断できないことを周りにひけらかす人
ムカつくんだよね
とっても鋭い言葉を向ける彼女。
そんな彼女を、その顔を、本当の意味で初めて観た。
0112
「何を迷ってるの?って、聞かなかったね」
含みのある笑みを向けて彼女はまた、聞いてきた。
もしかして、あなたもそういうタイプ?
とっても綺麗な眼差しで微笑みながら、彼女はじっと見つめてくる。
嘘をついてはいけない、と僕の本能が初めて機能した。
彼の不安も、あなたの不満も、僕分からないんです
0113
へぇ、面白い人
つまらないですよ、案外
でもそれは私の感情の答えじゃない
これが始まりだった。
勝手に好きになって勝手に捨てていく人たちとは違うって
あの瞬間、僕は悟ったんだと思う。
私ね、クラゲが好きなんだ
だから君にも興味を持った
そう言って去っていく彼女に僕は
生まれて初めて
興味を持った。
0114
“恋人の子供が通う保育園の先生且つ恋人の友人”から
“クラゲ好きの女性”になって。
それから彼女の名前を覚えるまでに時間は掛からなかった。
“ご近所さん”の恋人の名前も、馴れ初めも、悩みも
もう一度聞いてあげるから
__集合、竜楼、19時
気付いた時には塞がれていた感情の蓋にヒビが入り始めた気がした。
0115
竜楼は俺の嘆きとあいつのつまらなそうな相槌が染み込んだ
馴染みの中華屋だった。
悩み相談っていう可愛らしい誘い文句で愚痴を撒き散らす会に誘うのはいつも俺だった。
だから
あいつから呼び出された時は
ゾワっとするような、ワクワクするような
コーラとソーダを混ぜた時のような感覚に陥っていた。
0116
感情に蓋をしたあいつの「何か」を
あの日の竜楼が変えたのなら
あの日、竜楼に彼女を呼んだのは間違いじゃなかったのかもしれない。
あの日…
好きってなんなの?
って真正面から聞いてくるようなあいつには
話出せなかった俺の人生の一大事を
何も話さぬまま決めるわけにもいかなくて呼び出した…あの日。
0117
彼女と顔を合わせるのは朝の日課だった。
ご飯派だった俺がガラッとパン派に変わったのは
スーツに身を包んで最終面接に向かう日の朝、
フライヤーを配る彼女に「いってらっしゃい」と笑顔を向けられた時だった。
一目惚れは好きの理由になっていないってあいつには怒られそうだけど
それがきっかけだった。
0118
無事採用されて、あなたのおかげですってパン屋に行ったら
恩返しくれますか?なんてイタズラっぽく笑うから
毎朝ここで買っていきます!!って。
そんな流れで彼女との縁が繋がっていった。
感情に蓋をしたあいつに、俺が感じた運命を説明できる気がしなくて
彼女について何も言わぬまま、あの日を迎えた。
0119
彼女には誰よりも何よりも大切な宝がもう既にあって
結婚を考えた時、彼女の人生…いや、全員の人生を預け合うには
感情的に説明しても響かない“ただそれだけの”あいつを納得させなければ…そう思った。
そんな(彼女の友人に言わせれば)頑固で臆病なこの気持ちを聞いて欲しくて
「あの日」が生まれた。
0120
でも
24歳を目前に、酒に呑まれてしまった
覚えているのは、色んな重圧の先に見た
幸せにしたいっていう自分の確かな気持ちだけ。
竜楼に呼んだ彼女の友人は言った。
地球の中心はあなたじゃない
こうも言われた。
いい友達持ったね、と。
その意味が分からなくてソワソワしていた。
彼から招集がかかるまでは。
0121
__集合、竜楼、19時
僕は知りたくてたまらなかった。
彼の“恋人の子供が通う保育園の先生且つ恋人の友人”で“クラゲ好きの女性”が
何者なのか。
この大きくて小さな疑問をぶつけたら
彼はなぜか…嬉しそうに笑った。
初めてだ
お前が感情ってものを俺に見せてくれたのは、初めてだ
__僕だって、初めてだ
0122
誰かに興味を持ったのも
言葉の真意を探ってしまうのも初めてだった。
つまらないですよ、案外
でもそれは私の感情の答えじゃない
その言葉が、気になっている。
クラゲが好きと言い残した彼女にもう一度会って聞いてみたい。
どうしてあなたはクラゲが好きで
どうしてあなたは僕に興味を持ったんですか?と。
0123
近所の保育園で先生をしていて
パン屋で働く友人がいい人と出会った
その“いい人”の友人がクラゲみたいで興味を持ったそうだ。
彼女は言った。
クラゲって…美しいじゃん?
でも脳がないんだって。
それ知った時、すっごいショックだったけど
同時にそれまで以上に美しく見えたんだ
そして
僕も似ている、と。
0124
クラゲのような美しさなんて僕は持っていない。
それはむしろ彼女の持ち物だ。
僕を喜ばせようなんて1ミリも思っていない彼女を前に、その美しさに
耳の奥がぐらぐらした。
君、感情って知ってる?
「分かりません」
じゃあ今そこで高鳴っているのは何?
僕の胸を指して言った。
君はクラゲじゃなかったね、と。
0125
とっても綺麗な眼差しで微笑みながら、期待外れのような表情。
その表情に隠された感情の名前を僕は知らない。
僕は分からない。
感情が分からない。
でも
確かに今ここで何かが高鳴っている。
僕の中で何かが躍り出している。
これが“それ”なのかもしれない。
彼女の言う通り僕はクラゲじゃないかもしない。