一日一鼓【8月】
【2023年8月3日 ~ 2023年8月30日投稿分】
0803
ポツ ポツ ポツ…
「雨粒が、遊んでる」
誰もいない露天風呂。
ワタシの代わりに泣いた空は
ワタシの前で踊ってみせた。
遠くに行ってしまったあの人を想って
あの人に連れられた露天風呂で、
ワタシの代わりに、空が泣いている。
母を想って、
空が、泣いている。
0804
緊張の面持ちで、今日も花を眺める彼。
買わずに立ち去る彼の足はいつもビヨウヤナギの香りを纏っている。
そんな彼が、一輪、手に取る。
「今日こそ」
リングケースほどの膨らみを帯びた紙袋と一緒に、凛とした表情。
彼が出逢う幸せを僕は今日も願ってる。
僕は今日も、花を包む。
0805
ドラム式洗濯機の回転が母の記憶と喪失感を濡らしていく。
ワタシの前に記憶の迷路があらわれる。
引き止めるように差出されたのは、
リングケースほどの膨らみを帯びた紙袋と一輪の花。
見上げた先に、凛とした表情。
「今日こそ、だと思って」
彼は喪失感を枯らす術を、知っていた。
0806
親、子、恋人、友人、そして自分。
花を求める人には、大切にしたい誰かがいる。
花を売る僕は、誰かを大切にするあなたを想う。
「僕のわたす花が、何かの架け橋になりますように」
そう願うことのできるこの仕事が、
僕はとっても好きだ。
そんな僕も、
今日は一輪を手に、夜道を歩く。
0807
「今日こそ、だと思って」
彼女を幸せにする人じゃなくて
一緒に不幸を乗り越えられる人になりたかった。
いや…
悲しげに洗濯機を見つめる彼女。
ボクは、なる
怖くはない。
ボクは君に
「不幸を半分、分けてほしい」
彼女の目から溢れる涙。
そして
緩む、頬。
0808
いつもと変わらないアラーム。
いつも通り取り出すコーヒーミル。
ハンドルにかけた手から伸びる指。
朝日を浴びて控えめに光を放つリング。
控えめ。でも儚くはない未来。
いつも通り穏やかな寝息を立てる彼。
「いつも通り」から明けたワタシと彼の未来。
朝日を放つ薬指が、道標。
0809
「おはよう」
ない返事を今日も待つ。
強い日差しが顔を照らすのに、
眩しそうな素振りも見せず
ただじっと外を眺める。
その先に何が見えるの?
飲み込む愚問。
「見てきたら?」
外に何かを見る姉にハガキを差し出す。
そっと手を伸ばす彼女。
「迷路の先にあった景色を…」
0810
「迷路の先にあった景色を見に来てほしい」
まだ彷徨っている彼女には見せなければいけない。
街で一番うるさかったワタシたちが
いつの間にか迷い込んだ迷路。
あんたよりも先にウエディング着るなんて
って笑い飛ばしてみせる。
それが
ひと足先に迷路を抜けたワタシの使命だと思う。
0811
花のことしか考えてないのかと思ってた。
「心配している」と言わんばかりの瞳で
「見てきたら?」なんて。
弟のくせに。花が恋人のくせに。
手元のハガキを見つめて思う。
ずっと会えていない友人の…
相方の、晴れ姿。
迷路を抜けてよかった、と。
そして
羨ましいな、と。
0812
私には相方がいた。
家出をした時
恋人と別れた時
転職した時
横には彼女がいた。
父が亡くなった時
今の彼と出会った時
母が亡くなった時
彼女はいなかった。
彼女が迷い込んだ迷路の名を、
私はまだ知らない。
何に悩んで、何を悔やんで、何を思っているのか。
私は、知りたい。
0813
夫の他界を信じない妻。妻は夫を探す。
ミイラ取りが、ミイラに。
怖くて下を覗くことも出来ない。
ミイラになってしまった母なんて
ワタシ見たくない。
何で信じられなかったの?何でお父さんを探すの?何で、この世を去るの?
理解できない。
ワタシ信じられない。ワタシ…ワタシ…
0814
あぁ、うるさい…うるさい…
鼓動がうるさい。
ベランダの柵の前に揃えられたサンダル。
恐る恐る足を踏み入れる。
何で…?ねぇお母さん、何で?
手の中で「行ってきます」と書かれた紙がクシャりと音を立てる。
「…いかないで」
震える瞳が捉えたのは
無念の末に朽ちた母の姿。
0815
父を追う母を、気が付けばワタシが追っていたのかもしれない。
ワタシは、有念の末に堕ちていたかもしれない。
でも、彼が引き留めた。
彼にできるなら、ワタシにも。
朽ちかけの橋を渡る相棒へ
…いかないで
母には届かなかった思いが震える。
欠席を告げるハガキが瞳の中で揺れる。
0816
欠席を告げるハガキを眺める彼女。
ボクは彼女の相方を知らない。
でも、彼女たちを繋ぐ糸はボクにだって見える。
なのになぜ切ろうとするんだろう。
彼女の瞳に映るハガキから切なさが香る。
「ワタシ…見せたい…」
ポツリと漏れた言葉に霧が晴れる気配がした。
「うん、見せよう」
0817
彼女が一人泣いた夜、
彼女が堕ちてしまいそうな夜、
私は手を差し伸べられなかった。
「当たり前」ができなくなった。
彼女の幸せを祝福する権利は…もうない。
欠席に丸をつける私を見つめる弟の眼差し。
直視できない。
「会わせる顔がどこかにあるなら、私の中から見つけてみせて」
0818
脚の自由を失った。
最愛の人を失った。
それが、姉だった。
ドライブに行きたいと言ったのは姉だった。
車の中で失った、脚の自由。
玉突き事故だった。
「君が気に病む必要はどこにもないよ」
そう言って去ることが姉の為だと思ってしまう、
そんな恋人を持っていたのが、姉だった。
0819
人生は色のあるものだと思ってた。
そのはずだった。
夫との新婚旅行で登山。海もいいかもしれないね、なんて話していたのに。
あの事故が全てを…。
両目を奪ってしまったのに気に病むなと言った彼は、
私をあの日に縛ったまま離さない。
だから私は
「誰の光でも、見たら駄目なの」
0820
光を見てはいけない人なんていないのに。
そう思っても、かける言葉が見つからない。
僕には彼女の絶望が本当の意味では見えていない。
きっと僕の言葉は水のようにすり抜ける。
ならば…と差し出す、ラナンキュラス。
「姉ちゃんが、光輝を放てばいい」
姉ちゃんが、光になればいい。
0821
「…」
沈黙は錘となってラナンキュラスを包むその手にのしかかる。
差し伸べられた手を何度も振り払ってきた。
また、今も。
長いこと歩みを共にした悪い癖だけが
私の横に居座る。彼がいない私の横に。
「恐怖が後悔に勝ってしまうの」
踏み出す気持ちを
私は持ち合わせてないの
0822
ありがとう、紫苑。でもね、やっぱりこんな私を見せられない。
すっかり遠くにきてしまった。
あの場所で、瑞穂はまだ泣いていたんだ。
葵ちゃん。何を持っていこうか。
タオル、かな。だってね宙くん。
瑞穂、きっと、ずっと泣いてるから。
「みんな、どこかで必ず涙を流しているから」
0823
ピーンポーン
「…?」
がらんとした空気が告げる紫苑の不在。
心臓の奥が何だかうるさい。
私以外誰もいないことを知っているかのように催促するインターホン。
私に纏わりつく霧を裂く。
ハンドリムにそっと手をかけて気付く。
この胸騒ぎの理由を、どうやら私は知りたいみたいだ。
0824
カバンを握りしめる手に力が入る。
ドアが開く気配がして、
インターホンに伸ばしかけた腕が強張る。
心の準備は出来たはずなのに、騒つく。
でも、違った。
目の前でポカンとしたその表情の中に見える瑞穂の面影。
「…あおちゃん?」
あぁ、やっぱり。
「久しぶりだね。紫苑」
0825
動揺していた。
もう暫く会っていないけど、あの頃と全然変わらない、変わってしまった姉の友人。
いつか会えたら…と願った。
いざ会えたら、彼女の横にはあの彼。
ビヨウヤナギの、彼。
「今日こそ、と心を決めたあなたの相手があおちゃんで、よかったです」
なんて、ただの強がり。
0826
_ 知り合いだったんだね
_ …?
_ 僕、花屋の…
_ あ、あ〜!あの!
ピンと来たという言葉の模範解答を見た気がする。
「紫苑、少し話せる?」
本当に話したいのは僕じゃない事はわかってる。
僕はいつでも“瑞穂の弟”でしかない。
でも、僕も話したい。
だってあおちゃんは…
0827
僕の、初恋だった。
そんな告白できる雰囲気じゃないことも、わかってる。
だからせめて、僕は彼女の力になりたい。
それが瑞穂を救うことにも繋がるだろうから。
「瑞穂のこと?」
伏し目がちに微笑むと仄かに目に涙を溜める葵。
「だーれも来なくても、瑞穂にだけは来てもらいたいの」
0828
この騒めきの正体を、ボクは知っている。
ボクの知らない喫茶店で「昔」を味わう2人。
何だか、入れない。
彼女に向ける彼の眼差しを悟ってか
2人の大切な「彼女」を知らないからか。
「いいよね、宙くん?」
「…任せるよ」
微笑みの奥で悶え苦しむ妬心が、
見えませんように。
0829
妙に湿り気を帯びたインターホンの音が空気を揺らす。
会いたいのに、会いたくない。
ー ここまで来たのに。逃げるの?
なんて、自問する。
もう一度鳴らす、インターホン。
ドアの向こうに、人の気配。
あぁ、鼓動がうるさい。
でも
ー ワタシは、この胸騒ぎの理由を知っている。
0830
ゆっくりと開く扉。
待ち構えた場所に顔はなく、車椅子の上に彼女はいた。
久しぶり。と、そんな言葉しか出てこない自分が何とも憎い。
もっと掛けなければいけない言葉があったのに。
最初に掛けなければならなかった言葉は他にあるのに。
ねぇ瑞穂。
幸せを奪ってしまって、ごめんなさい。
8月の物語 『入道雲が絵画のように姿を見せる、ある日に向けた物語』 より
父も、母も、彼も、そしてワタシも、時に変な行動を取ってしまう。
でもそれが人間なのかもしれないし、その行動の末に待っている生活が人生なのかもしれない。
…なんて、綺麗な言葉で片付けられるほど ワタシはよくできた人間じゃないし、
なんでもウェルカムな人間でもなかった。